私たちはやっといろいろなことを考えたり感じたりできるところまで成長させて頂きました。毎日の暮らしの中で少しずつ本当のことも分かるようになってきました。ですが今はまだやっと入り口にたどり着いただけなのかもしれないのに、すべてが分かったような錯覚にとらわれることがあります。
もしかすると悟りとはいかに自分が分かっていないかが分かることかもしれませんね。私たちの先人が気付いていたかもしれないことが今は忘れ去られています。そのあたりから始めるべきかもしれません。
分かったが成長の妨げになるのかも
この世界は限りなく大きく底知れず深いものなのだと思います。ですからまだまだ未熟な私たちがすべてを分かるなどということは絶対にあり得ません。ですが私たちはほんの少しのことを知ることができると全部分かったような気分になり人にも自慢したくなります。それがとても低いハードルであるにもかかわらず。
その「分かった」はとても危険な感覚になることもあります。大体分かったとか、たぶんそうだと思うことによってさらに深くそのことをつきつめて考えようとはしなくなります。自分の心の中の狭く浅い考えで簡単に答えをだしてしまい、分かったと思うことによって分からないという不安からは一時的に解放されることになり、安心してしまいます。
自分では分かっていると思っていることがほんの一部であったり、全然違う思い違いであることもよくあります。自分の勝手な思い込みもたくさんあります。ですから分かったつもりのことも本当にそれが正しいことなのかを見直すことも大切です。常に自分の思いや考えか正しいかどうか疑問を持つ謙虚な姿勢が、更に正しい本当の答えを見出すことができる方法です。
私たちの心の成長には終わりはありません。これから先もずっと成長し続け今よりもっともっと大きくしていかなければならないんです。それが生きるということであり、大自然の掟であるようです。
ですから少しずついろいろなことを分かりながら登っていきましょう。今分かったことを足がかりにして次の分かったを目指していく。その繰り返しです。
全体としての成長が喜びになる
私たちは他のみんなと一緒に全体として生きています。全体のことを考えて生きていくこともとても重要な役割りです。自分さえうまくできればいい、という思いはある段階からは全く通用しなくなるようです。
今ラグビーのワールドカップが日本で開催され注目を集めていますね。私は以前からあまりラグビーのことに興味はありませんでしたし、一応ある程度のルールを知っているぐらいでした。ですがテレビでの試合を見る機会があり見てみると結構面白く勉強にもなりますね。ラグビーは個人一人ひとりの技量もさることながら、チームとしての結束力がとても重要なんですね。
一つのボールをチーム全体で相手のゴールまで運ぶか。単純なルールですが選手一人ひとりが自分のポジションの役割りをしっかりと果すために一生懸命練習して力を付け、少しでも前に進むことを目的に気持ちを高める。パスをつなぐためには互いの意思の疎通と信頼が必要でしょうし、走るスピードや動きの正確さも要求されます。そして選手一人ひとりが一つのチームとして結集して勝利を目指す。誰かがさぼったり、楽をしていたのでは勝利をつかむことはできません。
そして激しいぶつかり合いがあっても試合が終われば敵味方関係なく相手を称えることができます。
いろいろな国の人たちが人種や民族という枠組みを超えて、ルールという秩序に沿って力を出し合う姿は本当にみている私たちにも感動と勇気を与えてくれますね。
全体として役割りを果たしながら生きていくこととは、こういうことだと思います。自分一人だけのことを考えていてもチームとしての力は付きません。互いが思いやり協力して一つの目標に向かって努力していくことが必要です。
そんな社会になればどれだけ素晴らしいことでしょうか。
残念なことに今の私たちの社会はそうではありませんね。誰もがこの先どうなるのかわからない不安を抱いて暮らしています。その不安から逃れるためにか自分だけが得することを考え、他の人のことや社会全体の将来を考えることもなくなってしまっています。そんな今のありさまを変えるためにも本当のことを分かっていく必要があります。
私たちがそれぞれに成長していくのは全体のためです。ですから自分が少しでも分かって高まることができたことは、まだわからない人に教えてあげてその人が高まる手伝いをしましょう。そうすれば自分が分からないことを教えてもらえることもあります。そうして互いが少しずつ高まりあっていくことで全体も高まります。それが本来の姿です。知識は自分が独り占めするものではありません。
分かることで感謝の気持ちになる
何かを考えそのことが分かり、またそのことによって違う何かを考えるという終わりのない作業です。何かが分かったとしてもそれは最終的な答えではなく一時のものです。ですから私たちが絶対的な答えに行きつくことはないのかもしれません。
ではどうすれば本当の答えを得ることができるのでしょうか。
考えることの基本は事実に基づいてなければなりません。そして考えれば考えるほど、分かれば分かるほどあらゆることをして頂いていることが分かります。この世界で活かされ生きていることもして頂いていることです。とても壮大でありながらとても緻密に創られたこの世界を考え感じることが答えを得るためのヒントかもしれませんね。
私たち人が自分の力でしていることはあまりありません。すべて大自然の営みにより生きることができています。ですから考えるということは大自然の営みを知ることに他なりません。科学もすべてそうであり発明や発見もその力が働いていることを見つけたに過ぎません。その力を人が創り出すことはできませんから。
そしてその考えの行きつくところは 生命の大親 のご存在であり、この世界のすべてをしていて下さっているという事実です。そしてその事実に目覚めることができると今までには感じたことのない感動と感謝の気持ちが湧き出るそうです。すべてのことをしていて下さるのですから当たり前です。
私たちの中にはまだその感謝の気持ちを感じて生きている人はいません。だから何も分かっていないのだと思います。なぜ私たちには命があるのか、何のために活かされ生きているのか。生きていくために一番肝心なことが抜けてしまっているので分かる筈がないのかもしれません。
生命の大親 のご存在を知り、そして感じていくことが最初でありかつ最終的な答えでもあるのかもしれません。
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