大昔の人は自分たちの遠く及ばない大きな力の存在を感じていたのかもしれません。その力に憧れ少しでも近づきたいと思っていました。最初は純粋にそう考えていたのかもしれませんが、そんな思いがいつしかみんなから崇められ従わせたいという欲に変わっていきました。そんな自分に都合の良い神がこの地球には無数にあります。このことにどんな意味があるのか考えてみました。
神さまとは
大自然の大いなる生命のご存在であられる 大親神さま はこの世界のすべてのものに いのち を与えて生かして下さっておられます。
私たちは大自然に働く大きな力をなんとなく感じてはいましたが、その実体をつかむことができません。そして生活の中でも自分たちの力ではどうすることもできない領域があることもわかっています。そんなときに私たちはその大きな力の存在に対し祈りました。今日生きられたことを喜び感謝し、苦しい時には助けを求めたと思います。
その大きな力のご存在は、何となく感じることはできてもそれ以上分かることができません。ですからたくさんの人たちがそのご存在を想像し、神という対象を考え出したのだと思います。
私たち人間も他の動物たちのように集団で暮らしていたため、その数が増えていくに従い社会というより大きなまとまりになっていきました。多くの人たちが集団で暮らしていくためには、何らかの秩序が必要となります。社会をまとめ上手く運用していくためにも、神の存在と教えという決まりが必要だったのかもしれませんね。
今とは違い科学の力がまだ無かった頃であれば、身の回りで起きる様々な出来事の説明がつきません。そんな不安から逃れるためにも神の力が必要であったと思います。
そしてたくさんの神仏を造りました
私たちは時代の流れとともにたくさんの神仏を造り上げました。みんなが思い思いに自分の考えた神を造るもんですから、いろいろな特色があります。そして生きていた人まで亡くなった後に、神にしてしまうんですからどんどん増えていきました。
そして自分の神が本物であると言い張り、もっともらしい物語を作り大層な名前を付け、煌びやかな社を作り、さもその中には本物の神がいるような演出をしました。長い時間をかけ多くの人たちが付け加えることで今のような姿になっていると思います。
そもそも今ある神は誰かが考え造ったものです。どんなに優れた人であっても人以上のものは造ることができません。生命の大親によって創られた私たちが人間を超えるものを造れるはずがありません。それは犬が人間を作り出そうとすることです。できるはずがありません。
目を見張るような大きく美しい建物に煌びやかな装飾を施した像を入れ、格式ばった振舞いの方が大勢いたりすると、ここには神がいるもんだと思ってしまいます。
その厳しい戒律を守り、苦しい修行に堪えることが神に近づく唯一の手段と、日々精を出している方たちもたくさんいます。
みんな錯覚です。
本当の神様に目覚める時が来ています
そうして私たちは自分に都合の良い神を造るだけでは飽き足らず、他の人が造った神を認めず互いに対立していきました。すべてのものが平和に暮らしていくための教えがもとで長い間対立の火種となっています。
そしてこの地球もその何千年の間に素晴らしく成長することができたのでしょうか。その間も争いごとが絶えず続き、科学の進歩によりその破壊力は増していくばかりです。より良くなっていく世界で全く逆の方向に進んでしまっているような気がします。そのことでも地球上の神は本物ではなく、人が造り出した想像上の架空の存在であることがわかります。どんなに素晴らしい像であったとしても私たちを幸せにしてくれる力は持っていません。
私たちは本当の生命の大親であられる 大親神大生命 を無視し、本来いるはずのない実体のない神を拠り所にしてきました。これは大変大きな間違いです。本当にすべてをして下さっているご存在を知らないばかりか、別の全く関係のない物を作り上げ拝んでいたのです。
そんな作り話から目を覚まし、本物の神のご存在をわからねばならない時が来ています。そしてみんなが幸せに暮らしていける地球の次の舞台の幕を開けていきましょう。今の人間が造った神仏が対立のもとになるのであれば、それはなくなせばいいことです。
大親神さまより誰に頼らずとも素晴らしく生きていける力は誰もが頂いています。必要なことは頼ることではなく、それをさせて頂いていることへの感謝の気持ちです。
私たちはこれから先もっと事実に目を向け生きていかなくてはなりません。この世界は苦しみの世界でもありませんし、私たちは罪の子でもありません。
大親神さまがお創り下さった素晴らしい世界でずっと生きていくことができます。そのことをみんなで考えてみましょう。
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