私たちにとって一番大切なものは命です。命はあらゆるものにとって根源であり核心であるはずです。では命とはいったいどんなものなのでしょうか。
生きるものにとって命は欠かすことができません。ですが命のことをよく知りません。ぜひこの機会に一番大切な命のことを考えてみてください。
命のことを私なりに考えてみたことですので、合っているかどうかはわかりませんから聞き流してください。
命には何らかの役割がある
命とは何でもすることができる力と働きです。
命は目で見ることはできません。生き物であれば命があるときは、体は動いて温かくもありますが、命がなくなれば動きは止まり冷たくなってしまいます。何が変わったわけではありませんが、命のあるときはからだのすべてが活動しているのに、命がなくなるとすべて止まってしまいます。生き物が物になってしまいます。変わったのは命があるかないかだけですが、命があるかないかは外側からもはっきりとわかります。まるで電池の切れたおもちゃのようです。
命とは何かを活動させることができるエネルギーのようなものなのでしょうか。そのように考えると命とは電気のようなものなのかと思いがちですがそれも違うようです。おそらくエネルギーは体を動かすために必要なものであって、生き物であれば食べ物なのでしょう。
命のことを考えると心との関係も重要です。今までの宗教では命と心は一つのものとして考えられているようです。魂と呼ばれるものですね。体に魂が入っている時が生きている時であり、魂が抜けてしまうと死んでしまったとなりますね。
確かに命のあるものは必ず心がありますし、命がないのに心だけがあることもありません。ですが命と心は一体のものではなく、別々の意味があるような気がします。
心には色々な状態があります。その時々の感情によってくるくると変わりますが、命は有るか無いかだけです。ではどういった時に有り、どうなると無くなるのでしょうか。
生きているものには必ず命が必要です。それはわかるのですが生きていると思っていることが、私たちが思っているものとは少し違うような感じがあります。生き物だけに命があるわけではないのかもしれません。
命には感情はありませんが、目的のようなものが必ずあるようです。何かをするための命であり、目的というか用途というか役割りのようなものがあります。そう考えてみると命にも種類が出てきます。たぶん大きな一つの命の中にあることは変わりませんが、その中で目的に合わせて細かく分かれた小さな命が無数にある感じでしょうか。すべてを含んだ大きな一つの生命です。
植物で考えてみますと、木は私たちの周りにたくさんありますし、とても役に立っています。種の時には命があるのかわかりませんが、種に命が吹き込まれると発芽して木としての成長を始めます。そうして命の活動が始まると心が宿ります。植物などであっても弱く小さいものかもしれませんが必ず心があります。そして種であった時から木としての目的があり、成長し木としての役割りを果たそうとします。
木は生き物に必要な酸素を出してくれますし、葉を虫が食べたり実がなれば動物の食べ物にもなります。美しい花が咲けば私たちを楽しませることもでき、とてもたくさんの役に立ってくれています。
物にも命があり生きている
木にはたくさんの役割りがありますが、成長して木材として利用されることもあります。木材として使うためには木を切り倒さなければなりません。当然切ってしまえば木の植物としての活動は終わります。
木を切り倒した時点で植物としては死んでしまいます。木の一生は終わったかのように思えます。ですが製材され建物の柱として使われた時は木として別の役割りを果たし始めることになりますね。植物としての一生は終わったとしても、物として役立っていきます。たぶんこの木の一生とは古くなって建物の柱として使えなくなった時、柱としての役割りを果たせなくなった時に終わるのではないでしょうか。植物の木として誕生して成長し、木の柱に姿を変えて役割りを果たしていく。これがこの木の一生であり、植物であった時だけが生きていたわけではなく、柱になってからも生きているように思えます。柱になっても役に立っている間は命があるように思えます。
むしろ柱の場合は柱として役に立つことが目的ですから、植物であったときは準備期間であって柱として役に立っている時が、この木の本当に生きている時だと思います。であれば柱という物としての存在であったとしても、そこには命があり活動している姿ではないでしょうか。
たとえ物であっても何かの目的で作られ、その機能が働き使えるうちは命があり、壊れて使えなくなり役に立たなくなれば命はなくなってしまう。命があるのであればそれは生きているということになると思います。そして心も宿っているのではないでしょうか。
この地球も太陽も宇宙ですら命の活動によって存在し、役割りを果たすことができています。
役割りを果たすことそのものが命なのかもしれません。
そのように考えてみると命には明らかな目的があり、何かをしながら何らかの役に立っていく働きのように思えます。役立てるための働きでしょうか。
命が何かの役に立つための働きであれば、「生きている」よりも本当は「活きている」の方が正しい使い方なのかもしれません。生きるですとその状態を示しているだけですが、活きるになるとその対称に具体的な目的を感じます。ですから私たちもはっきりとした目的があって活かされているのでしょう。
ではその目的とはどんなことなのでしょうか。
素晴らしい命の世界です
大親神さまの大いなる生命こそが大自然の大いなる一つの生命です。その生命の一部ですから、その命の目的は大自然全体が素晴らしくなっていくための役に立つことです。大自然をより良くしていくための働きそのものが命なのかもしれません。
命とはとても厳格なものであって、何事にも左右されることはありません。そして生命の働きは永遠に続いていきます。
私たちはみんなそれぞれの心を頂いています。その心一つひとつが生命を使わせて頂いて生きています。
今までは命と心を頂いていると思っていました。自分の命であり自分の心だと感じていましたが、それも少し感じが違うのかもしれません。心は一人ひとり自分の心を創ることができますが、命は頂けるようなものではないような気もします。命は大きな一つの生命だけで、細かく分けられるようなものではないようにも思えます。命には心に関係なくどうすることもできない厳正さもあるようです。
今は自分のからだを命の働きにより使えるようにして頂き、自分の心がそれに宿り生きています。命が吹き込まれたからだを使って、大自然の役に立ち自分の心を高めていく人生を頂いている。そんな感じでしょうか。
命の働きには限りがありません。宿っている心によってどのようにでも使うことができます。私たちは今まで命の働きの本当の目的を知らなかったので自分の使いたいようにしか使ってきませんでした。御心を無視して自分たちの欲を満たすことしかしてきませんでした。
心にも命が働いています。大自然の大いなる生命のお働きがなければ何もありません。この世界自体もありません。何も存在することができません。
大親神さまの大いなる生命の働きによりすべてが成り立っています。大いなる生命の中で御心によりすべてが活かされています。
命とは貴いものです。命があるからすべてが成り立っています。命のことを考えるということはとても壮大なことなのかもしれません。ですから命の尊厳を冒すようなことがあってはならないことです。
大親神大生命の大いなる生命の働きにより、すべてのものが活かされている事実を考えてみてください。
命があることは偶然でも当たり前でもありません。御心の働きによりすべてがなされています。その御愛に気が付いてもいい頃です。
森の中にいるから森全体のことがわからないのと同じように、大いなる生命の中に生きているから全体のことがわからないのかもしれません。
大親神大生命の大いなる生命のお働きを感じ、活かされていることに感謝し自分の役割りを果たしていく。すべてが御愛に包まれた素晴らしい世界です。
このことを心に刻み生きていければ、すべてのものが御心に沿い成長し発展していきます。それが生命の法則なのかもしれません。
この世界の中で私たちは実際に生きています。もっとこのことを真剣に考えなければなりません。命の世界でたくさんの思いを感じさせて頂き、素晴らしい日々を送っています。すべて生命のおかげであることに感謝し生きていきましょう。
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